
閉店の札を裏返そうとしたとき、古い文庫本のあいだから、薄い水色の紙がすべり落ちた。
栞かと思った。けれど、紙には小さな文字が並んでいた。
あなたがこの本を手に取るころ、私はもう、この町にはいないと思います。
私は思わず、店の時計を見た。午後六時五十分。閉店まであと十分。外では、雨が店先の看板を細かく叩いていた。
手紙には宛名も日付もない。差出人の名前も、最後の一行にかすれた鉛筆で「M」とあるだけだった。
本の題名は『遠い灯台』。裏表紙には、前の持ち主らしい女性の名前が鉛筆で書かれている。森下美冬。聞き覚えのない名前だった。
この本は、先週、駅前の家を片づけていた男性が持ち込んだものだ。「母の本です。もう誰も読まないから」と、彼は段ボール二箱を置いていった。
私は手紙をカウンターに置き、買い取った本の台帳を開いた。森下美冬。住所は、店から歩いて十五分ほどの古い団地だった。
そこまで調べる理由はない。そう思いながら、私は本を閉じた。紙が一枚、また床に落ちる。今度は便箋ではなく、図書カードだった。
貸出日が三つ、鉛筆で記録されている。いちばん古い日付は、二十年前の六月十二日。返却日の欄には、同じ筆跡で短く書かれていた。
「返せなかった。ごめんね」
その字を見た瞬間、店のドアベルが鳴った。
雨に濡れた年配の女性が、入口に立っていた。彼女は棚を見回し、カウンターの本に目を留める。
「それ、まだありますか」
女性の声は、手紙の文字と同じくらい静かだった。
私は本を差し出す。彼女は表紙をなで、少しだけ笑った。
「昔、姉に貸したままになっていた本なんです。返ってこなかったから、もう捨てられたと思っていました」
「森下美冬さん、という方ですか」
女性はうなずいた。「美冬は、私の姉です」
私は手紙を見せるべきか迷った。けれど彼女は、便箋を見つける前に、図書カードをそっと手に取った。
「あの人らしい字」
それだけ言って、彼女は目を伏せた。
「手紙は、読んでもいいですか」
私はうなずいた。彼女はゆっくり紙を開く。窓の外で、雨音が少し弱くなった。
読み終えた彼女は、便箋を胸元にしまった。
あとで彼女が教えてくれた手紙には、こう書かれていた。
妹へ。借りた本を返せないままでごめんなさい。あなたと過ごした時間を思い出すたび、いつか話そうと思っていました。今度は私から会いに行きます。美冬
「この本、買っていきます。今度は、ちゃんと返しに来ますね」
彼女が店を出たあと、私は台帳の住所を見返した。先週、本を持ち込んだ男性の住所と、同じ団地だった。
結末の解説
手紙を書いたのは美冬です。彼女は妹から借りた本を返せないまま年月が過ぎたことを悔やみ、再会したい気持ちを手紙に残していました。息子が本を古書店に持ち込んだことで、手紙と本が妹のもとへ届きます。
妹が「今度は、ちゃんと返しに来ますね」と言うのは、姉から受け取った本を、いつか息子や家族へ返していくという思いも込めた言葉です。最後にもう一枚の紙が見つかる場面は、この古書店でまた別の誰かの記憶が動き出す余韻を残しています。
あの人は、姉の本を手放したのではない。誰かに見つけてもらうため、店に預けたのかもしれない。
閉店の札を裏返す。カウンターには、もう一冊の本が残っていた。
そのページのあいだにも、水色の紙が一枚、のぞいている。
おわりに
本のあいだに残された言葉が、誰かの記憶をつなぐことがあります。あなたなら、この手紙を見つけたとき、差出人を探しますか。